2007年5月27日日曜日

不完全な未来予測能力2

 貨幣経済が抱え込む問題としてインフレやデフレが存在する。デフレの極端なものが恐慌であり、インフレの極端なものがハイパーインフレである。恐慌は物の価値が下がり、供給者側も十分なお金が得ることが出来なくなり、賃金が低下する。この結果購入能力が落ちてまたさらに物価が下がり、供給者側はお金が得られなくなるという形でスパイラル状に流通がおかしくなってしまう状態だろう。いわば売りたい人が多くなり過ぎ、買い手が少なくなってしまう状態なのです。逆にハイパーインフレはお金の価値が大きく下落し、お金がその権威を失い、実体として紙キレとしての価値に過ぎない、というむき出しの実体に陥ることである。いわば貨幣そのものが成り立たなくなって物々交換しか成り立たなくなる状況に成ってしまうことです。こういった現象は貨幣が媒介する経済の中で引き起こされうる。すなわち、貨幣経済とは商品全体の総需要と総供給がつねに一致するという『セーの法則』がずれてしまうから問題が引き起こされるのだ。このずれを健全な形に調整しなおそうと考えるのがマクロ経済学なのだろう。けれど私たちは気づくべきだ。総需要と総供給が完全に一致するのは貨幣の媒介が存在しない物々交換の世界である。物々交換の世界では100パーセント、インフレやデフレに苦しまされることは無い。そう「神の見えざる手」が確実に働く世界になるのだ。しかし僕たちは一番最初にハイパーイフレを避けるべきだと考える。いわば、絶対に総需要と総供給が統一になる物々交換の世界が嫌だと思ってしまうのである。インフレやデフレといった大きな問題を引き起こす存在であっても私たちは貨幣を必要としてしまっているのだ。
 ところで貨幣とは何なのでしょうか?実は貨幣の利便性とは、将来、どんなものにでも交換が出来ることです。それが成り立つのは国家によってそう約束されたという形式から始まっていますが、その本質は多くの人がそう信じ込んでいるからに過ぎません。量の多少は有るにせよ貨幣を持っていれば誰でもどこに行っても何とでも交換してくれるだろうと、多くの人が信じているからです。そうでなければ国家を超えたグローバル経済は成り立ち得ないでしょう。将来どんなものにでも交換できる、ただし、それ自体は紙キレや電気的な印に過ぎず、実態的価値をほとんど持っていない存在なのです。貨幣を所有することは『将来どんなものにでも交換できること』、いわば、『将来』に渡る交換価値に限定された基準を所有することなのです。いわば貨幣を所有することは『将来』を所有することに見えてしまうのだといえるでしょう。
 この文章のテーマは人間の「不完全な未来予測能力」です。私は人間は完全で確実な『将来』を獲得することなんか出来ないと信じています。私は車に轢かれればどれほど無限の貨幣を持っていても死ぬでしょう。それが明日決して無いと、私は思いませんし、私の『将来』は決して貨幣の所有によって完全確実に保障されるのではないのです。それにハイパーインフレションが起これば、貨幣は一発でクラッシュします。(岩井克人氏の著作「二十一世紀の資本主義論」で指摘されたように、グローバル経済の中では基軸通貨であるドルはハイパーインフレーションを引き起こす危険性をはっきりと持ってしまっています。)けれど同時に人間は不可能な『将来』を獲得したいと過剰な欲望(やまい)を持ってしまう存在だと思っています。『将来』を獲得したかのように感じさせられる貨幣はこのやまいに直接的に働くのかもしれません。いや、実は全く逆なのでしょう。人間は貨幣の創造よりも先に「死の認識」を持っていたことは明らかです。貨幣を作ったものが人間の「不完全な未来予測能力」というやまいなんだろうと私は思うのです。
人間は不幸なことに地球上で最も強い生物に成ってしまいました。自分を脅かすものは、ほぼ他の人間しか無くなってしまったのです。このため人間の持つ関心の多くが他の人間のみに限定されやすくなってしまったのです。いわば人間は人間同士の閉じられた関係のみに多大なるエネルギーを費やす動物に成ったのです。実は未来を獲得(予測)出来るかのような呪術が、成り立つからくりがここに出来上がります。「信じなさい」という命令があります。三流のエコノミストや三流の宗教家が多用する言語ですが、この意味は理解できなくも有りません。人間は未来を予測できるかのように錯覚する脳を持ちます、すなわち「不完全な未来予測能力」ですね。この未来を獲得できたように錯覚した領域はあくまで錯覚で、実は未来など獲得していません。多くの人がそれが正しいと「信じる」ことによって、正しいと思い込む人が多いために、その状態が長時間持続するだけなのです。いわば人間の脳が『将来』を獲得できると錯覚すること(すなわち「不完全な未来予測能力)を利用し、その錯覚を他者に広げ続ける(「信じなさい」という命令ですね。)ことによって、あくまでも人間同士の関係に限られた(人間は人間同士に限られた世界が大きすぎる為それは絶大なる力のように錯覚してしまう)『将来』の獲得が可能となるのです。いわば貨幣とは呪術そのものであり、人間の「不完全な未来予測能力」を内包させて成り立つものなのです。
 貨幣経済は人類にとってとても大切なものです。しかし、現状のグローバリズムに見られる、ほとんど重商主義化し、貨幣を集めまくることを是とする思考はあまりにもおかしいのでは無いでしょうか?あまりにも強い貨幣愛が世界中を跳梁跋扈しすぎているように感じます。僕たちは貨幣愛そのものを、相対化して捉える必要が有るように思うのです。たぶん貨幣愛は人類が抱え込んだ大きなやまい「不完全な未来予測能力」を内包して成り立つもの何じゃないかと私は思います。人間が抱え込んだ大きなやまいも貨幣経済も存在否定を加えることは出来ません。けれどそれは全面肯定が出来てしまうということではないのです。いわば、無駄に過剰化してしまう貨幣愛を自嘲的に捕らえ、これらを否定してしまうのでは無く有効に制御する知恵を発揮させることは必要なのでは無いでしょうか?何故なら貨幣愛は一般的な物欲と異なり、際限も無く肥大してしまう特異な欲望だからです。

注 この文章は岩井克人氏の著作に多くの影響を受けた。岩井氏に感謝したい。彼の著作として私が他者に強く勧めたいのは「会社はこれからどうなるのか」「二十一世紀の資本主義論」です。共に名著だと思いますのでぜひお読みください。

2007年5月19日土曜日

不完全な未来予測能力

人間を特徴付けるものは様々あるが、その中でも最も大きな特徴は優秀な脳であることは多くの人が認めるところだろう。その優秀な脳の機能の中に、未来を予測することが出来る力が存在する。1日以上の長期の時間を予測して行動を行うことが出来るのは実は人間のみなのだそうだ。この能力があるから人間は様々な約束や契約などが出来る。明日、約束をして恋人に会うことが出来るのも、3年契約で大リーグに移籍することが出来るのも、国家予算が立てることが出来るのも、この未来予測能力があるからこそ出来るのである。明日(以上の時間)の計画を他の人と立てられなかったら(人間以外の動物はこれが出来ないことが普通なのだ)、人間は今の文明を保持し続けることなど出来ないだろう。
けれど、この長期の時間を予測する能力は実のところ原初の人間に恐ろしい牙をも突きつけたのである。
それが『死』だ。
いや、正しく言い換えよう。「自分は必ず死ぬのだ」という認識である。仲間の死を理解する動物は居るが、自分が必ず死ぬことを理解できているのは人間のみらしい。長期の時間を予測することが出来る故に人間は自己の死の認識を持ってしまっているのだ。「自分は必ず死ぬのだ」という認識は原初の人間を大いに苦しめただろう。実際人類の文明行為は葬送儀礼から始まっているのである。世界中に存在する古代の巨大な墓の遺跡はおそらく「自分は必ず死ぬのだ」という自分自身の認識との戦いから産み落とされていったのだろう。「自己の死」を理解させてしまう未来予測能力。自分は確実に存在しなくなるのだと理解してしてしまう能力。人間の未来予測能力は多分に今の僕たちの文明の大きな部分を支えている。しかし、その能力は「自分は必ず死ぬのだ」という恐怖と苦痛を真正面から突きつけてもいるのだ。
しかも僕たちは優秀な脳を所有することによって得た長期の時間を予測する能力があくまで不完全であることに気づかなければいけない。こう言えば実感できるだろうか?僕は『死ぬ』、これは絶対だ。僕は人類で有るが『人類は確実に滅びる』、これも絶対だ。僕は地球上に生きているが『地球も無くなる』、これも絶対なのだ。しかしそれが具体的に何時であるのかを正しく予測することは出来ない。地球はいつ滅びるかを私たちは絶対に正しく予測出来ない。人類がいつ滅びるのかを私たちは絶対に正しく予測出来ない。自分がいつ死ぬのかだっておそらく正しく認識出来ない。
多分僕たちは確実にやってくる『死』を認識できるのだが、それが何時どのようにやってくるのかを正しく認識することが出来ないのである。いわば、人間の持つ未来予測能力とは極めて中途半端で不完全なものなのである。
いや、実は一人の人間の死ならば、自分が死ぬ日をほぼ確実に理解できる場合があり得る。死刑囚として執行日が決定した。あるいは不治の病に罹ったと分かった。こんな場合は確実に死ぬ日がほぼ特定できてしまう。それでも、僕たちは死の直前まで逆転できる希望(生き残ること)を捨てることを出来ないだろう。いわば僕たちは完全で正しい未来予測能力などを持ちたくないという要素すらもっているのだろう。
本当の所生命にとって長期時間の予測能力というものは、生命である存在性に反する余剰物のかもしれない。
鳥はただ死ぬことが出来る。ただ懸命に生き、ただ命の終わりと共に静かに死を迎える。僕たち人間は死ぬことを恐れ、過剰にもだえ苦しむ。全く逆に生きることを恐れて自殺してしまうことさえある(「自己の死の認識」を持たない存在は、認識自体が無い以上、それを選択することが不可能である。自殺もまた不完全な未来予測能力が引き起こす現象だろう。)人間は、死をめぐって無駄に醜くあえぐ存在なのだ。たぶん余りにも不完全な未来予測能力を持ってしまうが故にだ。
いわば僕たちの長期時間を予測する能力は余りにも不完全で中途半端なのだ。そしてその能力の本質とは生命であることそのものに反する能力ですらあるのかも知れない。「自分は死ぬ」という確実な未来を知ることは出来るのに、それが何時であるかを把握出来ない(恐怖ゆえに分かりたくない)程度の力しかない。余りにも不完全で中途半端な未来予測能力。
この不完全な未来予測能力はたぶん今の僕たちをとても強く呪縛しているんじゃないかと、僕は思っている。だから、このブログのなかで一つの重要なテーマに位置づけることにした。

2007年4月15日日曜日

消費者なんかいねえんだよ!

僕達は消費者などと呼ばれてしまう。僕はこの呼ばれ方に強い苛立ちを感じてしまう。これはまさに経済学という学問が極めて歪み、ひずみきった学問に過ぎないことを言い表しているからだ。
僕たちがモノを買う場合、その使用価値を考え、いかに有効に活用するべきかを考えて、モノを買って活用する。何故なら使用価値が高いものを購入活用することが、自分の生活を豊かにしてくれるからだ。しかしながら使用価値は一つ一つの商品が持つ固有のものであり、使用する人によっても変化してしまう価値である。このため経済学はこの使用価値を体系内に取り込むことが出来ない。経済学の立場からするのならば、使用価値とは非合理で無秩序な価値に過ぎないのだ。
いわば、自分を豊かにする為の人間の自然な行為を切り捨てることによってしか成り立たない歪んだ学問、これが経済学の本質の一面であることは確かだろう。だから経済学は僕たちを消費者などとと呼ぶことしか出来ないのである。
今、もう決して消費者などと呼ぶにふさわしくなく、使用者や活用者と呼ばれるべき存在を元気にしてしてくれるツールが生み出された。それがインターネットである。かつて僕達は恐ろしく短い時間で気分や雰囲気を垂れ流すテレビCMによって踊らされる弱々しい消費者に過ぎなかった。しかし、今は違う。ブログで自分が見付けた使用価値が高い商品を自慢することが出来るようになった。他の人はその自慢を見付けて細かい質問まで出来るように成っている。価格.comでは単に値段の安さの比較に止まらず、口コミレビューを付けることによって、その商品の使用価値を実際に使用し詳しい人たちから答えを聞けるようになった。価格.comの口コミレビューの中には、相当に良心的で相当にその商品や関連情報に詳しい人たちが、企業論理とは別の形でそこに住み着いているようだ。いわば、使用価値の力がネットによってどんどん高まり強くなってきているのである。
この影響はどうも作り手である企業側に影響を及ぼし始めているようだ。どう売るべきかより、いかに使用価値を高めたモノづくりをすべきか、という問題に向き合い直面する必要性が高まっていることを企業側も理解し始めているように見える。
金融や資本は今、企業に対し『利潤を追求せよ、社会規模を増大させよ』と合理的?な経済学の論理を背景にしつこく追及し続けている。けれどそんなことをやっていたら、企業は『使用価値を高めたモノづくり』で敗北してまいかねない状況がどんどん育ってきているのだ。
僕達は消費者などでは無い。すぐれた使用価値の製品を有効活用する活用者なのだ。僕達はネットを利用し、消費者からすぐれた使用価値を活用する活用者という存在へと生まれ変わってきている。
さあ、金融や資本たちよ、経済学が切り捨ててしか成り立たなかった、不合理とレッテル付けするしかなかった使用揚価値の力がどんどん育ってるんだぜ!いっておく、不合理なのは僕たちではない。使用価値を思考することが出来ないお前たちが依存するその歪んだ学問なのだ。

2007年3月31日土曜日

持ち合い保険

当社、三井菱UFOさくらりそそ銀行は企業防衛に最も優れた株の持ち合いによる防衛手法に大きな価値と意義を見出し、この手法を世界中のより多くの企業のためによりよく活用していただくために「持ち合い保険」創設いたしました。
株の持ち合いは、複数の企業で55パーセント以上の株を持ち合って、敵対的買収などを退けるものですが、こういった手法が一般株主が知らぬうちに行われていたことが大きな問題だと思います。こういった株の持ち合いに至る行程を全て公開し、一般株主様にも決して迷惑をかけず、むしろ市場価格より高めに購入させて頂き、複数の企業で55パーセント以上の株の持合い状態を形成いたします。そしてこの株の持ち合い状態が長期的に継続させえるよう様々なサービスを行うものが、「持ち合い保険」でございます。
例えば持ち合いを行っている、お仲間の企業が業績悪化して株価が下がったときなど、一緒に被害をこうむってしまいます。こういった被害を保険によってまかなうという訳でございます。その他、株の持合によって企業様がこうむる被害をすべてこの保険によってまかなわせて頂きます。
また、株式会社からLLP(有限事業組合)への移行を希望するお客様には積極的に支援すると共に、LLPとなっても積極的にご融資させていただくことも約束させていただきます。

この株の持ち合いはコーポレートガバメントが働きにくくなるとお考えになる企業様にはオプションとして強力な監査システムを提供いたします。
監査人は世界中にいる最も倫理的にして金に欲に惑わされない多数の宗教者の御協力をお願いしてあります。キリスト教の聖人、イスラム教の聖者、仏教の僧侶などなど、一つの宗教にとらわれず、優れた倫理人を選出しております。彼ら倫理人が監査するシステムなのです。倫理観は競争原理によって有効に培うことが出来ません。的確に倫理観をはぐくむのは、競争原理などではなく、自己鍛錬であり人として修行しようとする意識なのです。強い自己鍛錬の意識によって培われた優秀な倫理人を監査人として私たちは提供いたします。監査方法は多重にかけたとしても欲にまみれた人間たちの集団ならば、買収されてしまい。有効な意味を持ちません。多重化させても、倫理観など無くて良い、欲を肥大化させて「神の見えざる手」に任せればよいと考える方法では、買収されてしまい無駄なのです。監査とはシステムによって創ることが不可能なものであり、競争原理とは異なった自己鍛錬や修行の意識によって倫理的人格が存在することが絶対に必要不可欠なのです。最も優れた監査とは絶対に欲に惑わされない優れて倫理的な人格によってしか防ぐことが出来ないと当社は考えております。
このオプション名ですか?
「あるんだかないんだか分からん『神の見えざる手』みたいなあぶねえものに頼れるかよ!こちとら修行で培った倫理じゃい」
でございます。

2007年3月25日日曜日

人材が不足する日本

まあ、経済学に関する色んな本を読んでみた。僕なりに構造改革で確実に間違っていると感じるのは、日本は確実に人材不足になるにも関わらず、その対策が余りに弱いという点だ。
僕は建築の職人なんだけど、この点は凄く強く感じる。
建築業界は不況なのに人が余っていると批判されたが、それは確実に違う。いや、設計や監督など上部の存在は確かに人が余っているとも言えるのかも知れないが、現場の職人レベルでは確実に違う。ちょっと解説しよう。
不況になって10人の職人を抱える施工業者が潰れたとしよう。親方はサラ金、闇金においこまれて、自殺して保険で多少のお金を返した後、残るのは9人の職人である。9人の職人は仕事をしないと死ぬので、3人は他の仕事に着いて、6人は独立して一人親方になる。いっくら建築の職人と言っても実際一人ではさすがに仕事が出来ないから、嫁を経理にして、銀行でリストラをくらってプーをしてる従兄弟を手元として引っ張ってくる。これで、会社の数は6倍に増えて、人手は倍近くに増える。そして実際に出来る仕事の量は素人が混ざるので確実に半分以下になり、利益は3分の1以下になるだろう。こういう風に内容がボロボロになって増えた会社数と人手を、経済学者どもは叩きに叩き続けていた。
実際、現在、まともな職人は確実に減っている。まともな職人が減っているにも関わらず、経済学者様は建築業界を叩きまくるから、工期短縮やらが横行し、例の偽装事件が起こる。作る手が無いにも関わらず、「安くしろ!安くしろ!」の大合唱。人手が余ってりゃ競争原理も働くかも知れないが、人手が足りないのに競争原理なんか働くはずが無い。だから、建築業界の上部がいかさまするしか無いのは当たり前ジャン。あの偽装事件は現実をキチンと見ない経済学者様が作り上げた事件なのだ。
建築業界の上部は確かに無駄があるのかも知れないが、施工業者(職人)レベルは完全に人手が足りない。正直うちの会社は今、仕事をどう断るかに苦労している。当然パープーな職人くんたちですので、合理的になど動かず、義理と人情で動いちゃってるけどね。ようは義理がある監督の仕事を優先してる訳ね。
正直これから、日本は確実に人手不足が極めて広範囲に広がっていくだろう。団塊の大量退職、少子化現象、確実にそれは起こるね。人をパートや派遣で低賃金で働かせようなんて・・・・・甘すぎますよ。特に職人のような3K職は完全に人材不足が明らかに噴出するはずだ。競争原理なんか絶対働かない、だって人手が足りないんだもの、絶対無理だって、経済学者様よ、さあどうしましょう。

2007年3月11日日曜日

経済人という存在

標準的な経済学では普通の人はみんな「経済人」であると考えて理論を組み立てるらしい。
この経済人というのがすごい。
『経済人というのは超合理的に行動し、他人を顧みず自らの利益を追求し、そのためには自分を完全にコントロールして短期的だけでなく長期的にも自分の不利益になるようなことは決してしない人々である。自分に有利になる機会があれば、他人を出し抜いて自分の得となる行動を躊躇なくとれる人々である』
というものだが、こういった定義は経済的モデルを考察する際に経済学者たちが普通の人々がこうなっていると考えやすいからに過ぎない。

しかしながら、もし全ての人間がもしこうだとすると、確かに市場に全てをゆだねることが一番良い。
けれどこれだと株で大もうけなんてことは決して起こらない。
なぜなら、経済人同士の取引なのだから、株価は適切な価格で必要なとき上下する。
ファンドが乱高下する中でうまく売り抜けして利益を出すなんて現象はまったく起こりえないのだ。
株で儲けるや、バブルの発生や崩壊も起こらない。
当然信じがたいほどの大量のドルが無駄に流通し続けるなんて現象も起こるはずがない。

証券会社は子供たちに金融教育の重要さを説こうとする。金融を正しく学ぶことは市場の安定のために重要だからというのかもしれないが、それって、この「経済人」になりましょう、または近づきましょうって話では無いだろうか?
経済学に強いやつが偉くて(勝ち組)経済学に弱いやつがバカ(負け組)っていうだけの話なんじゃないだろうか?
確かに私の知り合いで自殺した3人は確かに「経済人」では無かったよ。そのうちの一人は自分で「経済人」気取りをしていたけどね。
今の経済学ってそんなに偉いのだろうか?

人々の動きを、この「経済人」という定義ではなく考えようとする経済学が新たに考え出され始めている。
その入門書的存在が『行動経済学』という本だ。「人は限定合理的に行動する」という心理学や行動学の要素を入れて経済学を訂正しようという試みである。まだまだ生まれたばかりの若い学問ではあるが、発展していけば現在の経済学の矛盾を訂正できるかもしれない。
ただし、この本は僕が上に展開したような現在の経済学に悪質にカラむような内容は無い(笑)。ちゃんと全うな学問の本なので是非読んで欲しい。

2007年3月7日水曜日

リバタリアンという存在

構造改革が現在出版界で激しく批判されている状況を書いた。その構造改革に大きな影響を与えたのが、米国の右派であり、その米国の右派をネオリベラルとして批判するのが現在のブームだ。その米国の右派に影響を与えた一群の思想家たちがリバタリアンと呼ばれる人々だ。まあ批判されている構造改革に直接では無いにせよ間接的に影響を与えている。
そのリバタリアンの思想を入門書的にまとめた本が『自由はどこまで可能か』である。正直この本は面白かった。その題名のとうり自由の追求はどこまで可能かを追求しようとする思想家たちのその基本的な筋道を伝えてくれる。自由の国アメリカだからこそ発生出来た思想だろう。今の日本の実情に本当に必要とされる思想であるのかという検討は明らかに必要だが、ひとつの思想運動としては高く評価できる。
リバタリアンとは個人の最大限の自由を尊重するためにはいかにあるべきかを考える。その結果が経済的自由の尊重(税金を最小限に抑える)と個人的自由の尊重の両面を重視する。この結果導かれる政治形態は小さな政府で市場原理の尊重となるのだ。故にほとんど全ての政策機能を民間化(市場化)しようとするのだ。理論的整合性は確かにとれている。
だが、僕は二つの問題点を感じた。基本原則となる政策機能の市場化が本当に合理的なのか?という問題、この点の絶対にそうであるという説得力が低いのだ。少なくとも命題と成る経済的自由の尊重を行えるのかもしれないが・・・・
もう一つはこの思想は非常にアメリカ的な思想であり、アメリカという風土にはとてもマッチした思想であるがこれを他国に薦める必要があるのか?という点である。

この二つの問題は今後もちょっと拘って書き込みたいと思う。
でもリバタリアンという存在は現在の日本においても決して無視できる思想や存在でないことは明らかだ。
著者が同じ『リバタリアニズム読本』も良著でお勧めできる本。

でも蔵研也氏の『リバタリアン宣言』はアナルコキャピタリズム(無政府資本主義)を狙った本だけどちょっと本人の思考の未熟さがもろ出てしまっている。
無政府資本主義を実現する具体的な手段が、お金儲けに成功して複数の国に家を持って所得税を払わないで暮らす「PT」を肯定あるいは賛美するじゃ、いっくらなんでも問題が多すぎると思います(笑)。